Apr 27, 2012

「心」で読むtadoku

ネット、本、雑誌、どこでも見かけるようになった英語多読という言葉。
でも、なぜかその大半が、私の多読と違うと感じる。
特に、学校や塾で広がっている多読って、
どこかに魂を捨ててきちゃった多読、みたいな感じがする。
どうしてなんだろう。


誰でもみんな、多読をしたら効果を感じたい。
効果があると示すためには、数値化が一番。
そして、短期間で数値に現れるぐらいの効果をだそうと思ったら。。。
「頭」で読む多読へと向かうしかない。

それに対して、私のように短期間で多読の効果が出るはずがない、
英語力を伸ばすことより、読書としての多読がしたい、
そう考えて多読する人がたどり着くのは。。。
「心」で読む多読。

「頭」と「心」この違いは大きいのかも。

「頭」で読むと、
ちゃんと「わかろう」とし、結果、レベルに囚われてしまったり、
9割以上わかる、やさしい本から読もうなどという、
融通のきかない多読になっていくんじゃないだろうか。

「心」で読む、心で「感じる」というふうに言葉を変えれば、
「わかりたい」呪縛から解放される。
辞書に頼ったり、和訳する癖も、
「感じる」ってことを強調すれば、自然に消滅していくことなんじゃないか。


アカデミックな世界とビジネスが一緒になって、
「頭」で読む多読ばかり広げようとしている。
どうしてこんなことになってしまうのか。

5 comments:

Whiskers said...

ずばり!そこだね!
私もさー、もう「多読」ではなく、読書なの。趣味なの。

昨日、卒業生が借りた本を返しに来たの。たまーにやってきて、私の本棚から本を借りて行く。もう学校に置いてある私の既読本でお薦めのものは全部読んじゃって、この前は未読本のGilbert Grapeを貸したら、とても良かった、って。今度はミステリーを貸しました。この子も、もう趣味になってるんだよね。英語力を伸ばすとかあんまり関係ない。

英語力はもちろん伸びたらいいんだけど。やっぱり、本を楽しんでもらいたい。
多読の授業で私がうれしい瞬間は、学生が本を読んでにやにやしてるとき。すごく集中してるとき。つまり、その本を楽しんでるとき。

Mrs.Malone_emmie said...

この投稿は、もう少し解説を加えて、あちらにだしてもいいかなあ。
なんか、もう、だんだん、わかんなくなってきてる。

だって、心な多読がわかる人なんて、本のごくわずか。
相当な語数を読んでこないと、実感できないんじゃないかな。

ところが、世の中で目につきやすいのは、頭な多読。
ということは、多読をすすめればすすめるほど、頭な多読に貢献していることになるでしょ?

Whiskers said...

そうだよ~、これもどうして出さなかったの?と書きかけてやめたの。毎回になっちゃうからね。

でも、ひょっとしたら、ここが私たちの大切なところかもよ、他の人たちと決定的に違うところかも。

多読の初めの頃って、もちろん英語力をどうやって伸ばせるか、ということはあっただろうけど、きっと、「こんな世界が広がってたんだ!」ってみんな興奮して本を読んで、「これどう?これは?」って紹介してたんじゃないのかな。普及し、有名になるにつれて、その喜びが薄れていって、どうやったら効果が出るとか、そっちに重きがいって。

これ、出したらいいよ!うん!


あ、それからwritingの記事ね、もう~、付け加えること何にもなくて、コメントすらできませんでしたわ。ホホホ。

emmie said...

あのブログを始める時、他の多読がどういう状況なのか興味がなかったから、特に気にせず始めてしまったけれど、なんだかねー、もう多読とか楽しいっていう言葉を使うことがいいことなのか、考えてしまう。
英語学習雑誌とか見て。そこらじゅうに多読とか楽しいっって使われているから。

Whiskers said...

suそっか~。emmie-sanは最初から関わった人だから、そういう思いが強いのかもね。
私が多読を始めた頃は、もう掲示板もできてたし、ある程度広まりがあったからね。
お勉強な多読の記事があっても、なるほどね、でも、私は好きじゃないな、とあまり心は騒がない。
色々試してきて、本当の力がないものはいつかはすたれる、とわかってきたし。
GRを読むのは受験にきくのはたしかだと思う。それを求める人がいたら、そこをとめることはなかなか難しいと思う。
でも、それだけが多読じゃないよ、試験が終わって、もし余裕ができたら面白い本読んでみませんか、てな感じで声をあげ続けていくことも必要なんじゃない?
英語ができるって、どういうことか、わからない人が多すぎて、結局TOEICに頼ったりしてるみたいだから。